『ツバキ文具店』感想|受け継いだものの意味と、過去から一歩踏み出す勇気

小説

おすすめ度:4.0

小川糸さんの『ツバキ文具店』を読んだ。

主人公の雨宮鳩子は、亡くなった祖母から鎌倉のツバキ文具店を引き継いだ。雨宮家は江戸時代から続く代書屋の家系で、鳩子はさまざまな人から依頼された手紙を代わりに書いていく。

最初に印象に残ったのは、代書屋という仕事の奥深さだった。しかし、読み進めるうちに、私が最も心を動かされたのは、鳩子と祖母の関係だった。

幼い頃から厳しく育てられ、祖母に反発していた鳩子。しかし、代書屋の仕事や周囲の人たちとの交流を通して、祖母もまた、自分を大切に思い、悩みながら生きていた一人の女性だったことに気づいていく。

受け継いだものの意味を知り、過去を受け止めながら新しい人生へ踏み出していく。そんな鳩子の姿が心に残った。

※以下、物語の結末に触れています。

1.押し付けられた人生から、自分の人生へ

鳩子は幼い頃から、先代である祖母に厳しく字を教えられてきた。6歳から墨で字を書く練習を始めたが、うまく書けなければ手を叩かれた。平仮名とカタカナを上手に書けるようになるまでに2年ほどかかり、漢字の練習が始まると、友達と遊ぶ時間もなくなってしまった。

高校2年生のとき、鳩子はついに祖母への不満を爆発させる。友達と遊びに行ったこともなく、ファーストフードを食べたこともない。自分の人生を勝手に決められていることが我慢できなくなったのだ。

私は、鳩子が祖母に反発した気持ちはよくわかる。祖母は代書屋として必要な技術を身につけさせようとしていたのだろう。しかし、どれだけ大切な技術であっても、本人が望んでいないものを押し付けられれば、苦しくなるのは当然だと思う。

そして、身近な人だからこそ、一度離れることが必要な場合もあるのではないだろうか。

祖母は、厳しく育てることが鳩子の幸せにつながると信じていた。一方、鳩子にとっては、祖母の期待に従うことが当たり前になっていた。一緒にいる限り、祖母はますます厳しくなり、鳩子はますます反発する。そんな関係から抜け出せなくなっていたのかもしれない。

しかし、離れたことで、祖母は自分の育て方を見直すようになる。そして鳩子も、祖母とは違う考え方で、自分の人生を生きていけることに気づいていく。

お互いが傷ついたことは悲しいが、距離を置いたからこそ、相手を以前とは違う目で見られるようになったのではないだろうか。

そんな鳩子を海外で助けてくれたのは、皮肉にも祖母から教わった書の技術だった。日本の文字を書くと喜ばれ、自分には人を喜ばせることができる技術があると気づく。

この場面も印象に残った。何かひとつ、自分の武器になるものがあるというのは心強い。新しい場所に行っても、環境が変わっても、自分が身につけた技術は簡単には失われない。

もちろん、その技術を身につけるまでの苦しさが消えるわけではない。それでも、かつて押し付けられたものが、自分を助けてくれることもある。

大切なのは、それを誰かに言われたから続けるのではなく、自分の意思でどう使うかを決めることなのかもしれない。

2.誰かの気持ちを伝えることが、自分の仕事になる

ツバキ文具店には、さまざまな事情を抱えた人たちが手紙の代筆を依頼しにやってくる。

亡くなった猿へのお悔やみ状を書いてほしいというマダム。先生に恋文を送りたいという小学生の女の子。離婚を周囲に知らせたい夫婦。借金を断るための手紙を書いてほしいという男爵。

手紙を書く理由も、伝えたい気持ちも、人によってまったく違う。

なかでも印象に残ったのは、離婚を報告する手紙だった。妻に好きな人ができたことが理由だったが、夫は妻を一方的に悪者にしたくないと考えていた。

ただ事実を伝えればよいわけではない。周囲に誤解を与えず、それでいて依頼者たちの気持ちをきちんと伝えなければならない。そんな難しい依頼をやり遂げたことで、鳩子には代書屋としての自負が芽生えていく。

自分の技術を使って誰かの役に立ち、喜んでもらえる。そうした経験が、自分の仕事に意味を感じるきっかけになるのだと思う。

そして、手紙には、人と人をつなぐだけではない役割もある。

かつて好きだった人に、20年以上の時を経て手紙を書きたいという依頼人がいた。相手にはすでに夫がいるため、女性の筆跡で、ごく普通の手紙を書いてほしいという。

相手の家庭を乱したくない。それでも、一度だけ気持ちを伝えたい。

私は、この依頼を読んで、手紙という連絡手段の良さについて考えた。

手紙なら、自分の住所を知らせずに、一度だけ連絡することもできる。一方、メールでは連絡先が残るため、その後も簡単にやり取りを続けられる。

一度だけのつもりが、かつての恋心を呼び覚まし、今ある家族との関係を壊してしまうかもしれない。手紙にも同じ可能性はあるが、相手との距離を保ちながら気持ちを伝えられるところに良さがあると思う。

また、絶縁状を書いてほしいという依頼もある。誰かとつながるだけでなく、関係を終わらせるためにも手紙は使われる。

人と人との関係は、近づけばよいというものではない。ときには距離を置くことも必要なのだと思う。

そう考えると、代書屋は単に気持ちを伝える仕事ではなく、人と人との距離を整える仕事でもあるのかもしれない。

そして、鳩子の仕事は、文章を考えるだけではない。言葉遣いはもちろん、紙や筆記具、封筒、切手まで、依頼人の気持ちを伝えるために最もよい方法を考える。

その人のために一生懸命に手紙を仕上げていく鳩子の姿が印象的だった。

かつて鳩子は、代書屋の仕事をインチキだと考えていた。

そのとき祖母は、誰かに感謝の気持ちを伝えるためにお菓子を持っていく場合、自分で作ったものでなくても、気持ちがこもっていないわけではないと説明する。

自分の気持ちをうまく言葉にできない人のために、代わりに手紙を書く。そうすることで、かえって気持ちが伝わることもある。

私は、この考え方が好きだ。

今なら、AIを使って手紙の文章を考えることもできる。それでも、依頼人の気持ちを丁寧にくみ取り、どのような形で届けるのがよいかを考えることには価値があると思う。

鳩子は、さまざまな依頼を通して、少しずつ祖母が言っていた代書屋の意味を理解していく。そして、かつて嫌っていた仕事が、自分自身の仕事になっていく。

誰かに押し付けられた技術でも、自分の意思で使い、誰かの役に立てることで、初めて自分のものになるのかもしれない。

3.失ったものを受け止め、今あるものを大切にする

物語の後半で、鳩子のもとにイタリア人の男性が訪ねてくる。彼の母は祖母と長年手紙をやり取りしていたという。その手紙には鳩子のことがたくさん書かれており、男性はそれを鳩子に返そうとする。

そこには、鳩子の知らなかった祖母の気持ちが記されていた。祖母は、厳しく育てることが愛情だと信じていた。しかし、鳩子を苦しめていたことに気づき、深く後悔していた。

私は、この場面がとても印象に残った。

鳩子にとって祖母は、自分の人生を押し付け、自由を奪った人だった。しかし、祖母もまた、どうすれば鳩子を幸せにできるのか悩んでいた一人の女性だった。

もちろん、祖母が鳩子を愛していたからといって、厳しいしつけが正しかったことにはならない。鳩子が苦しんだ事実も変わらない。

それでも、祖母の気持ちを知ることで、鳩子の中にあった祖母の姿が少しずつ変わっていったのではないだろうか。

人は、相手のことをすべて理解できるわけではない。特に家族は、近くにいるからこそ、相手のことをわかっているつもりになってしまうのかもしれない。

祖母は鳩子を大切に思っていた。しかし、その愛情は鳩子にはうまく伝わらなかった。そして鳩子もまた、祖母が何を考え、何に悩んでいたのかを、祖母が亡くなるまで知らなかった。

このすれ違いが切なかった。

一方、鳩子は、隣に住むバーバラ夫人とは良い関係を築いている。血のつながった家族だからといって、必ずしもうまくいくとは限らない。けれど、家族との関係がうまくいかなくても、別の誰かが支えてくれることもある。

人は、ひとりの相手からすべてを与えてもらう必要はないのかもしれない。

そして、物語の終盤で、鳩子はQPちゃんとその父親との交流を通して、さらに大切なことに気づいていく。

QPちゃんは母親を亡くしており、寂しいときには自分で自分を抱きしめるという。そんなQPちゃんが父親におんぶされている姿を見て、鳩子は、自分も幼い頃に祖母におんぶされていたことを思い出す。

厳しく字を教える祖母だけではなかった。自分を背負い、大切に育てようとしてくれた祖母もいたのだ。

私は、この場面が好きだ。

祖母が文通相手に宛てた手紙を読んで、鳩子は祖母の気持ちを知った。さらに、QPちゃんとその父親の姿を見たことで、忘れていた祖母との温かな記憶までよみがえった。

頭で理解することと、心の中で受け止めることは、少し違うのかもしれない。

そして、鳩子は祖母との関係をもうやり直せないことに気づく。どれだけ祖母の気持ちを理解できても、祖母はもういない。過去に戻って謝ったり、話し合ったりすることもできない。

それでも、鳩子にはこれからの人生がある。

QPちゃんの父親との交流を通して、失ったものを追い求めるよりも、今、自分の手のひらに残っているものを大切にすればよいと思えるようになる。

そして、鳩子は祖母に宛てて手紙を書く。

私は、この結末がとてもよかった。

幼い頃から祖母に教え込まれ、あれほど嫌っていた代書の技術。その技術を使って、鳩子は多くの人の気持ちを手紙にしてきた。

そして最後に、自分自身の気持ちを祖母に伝えようとする。

祖母から押し付けられたものが、やがて鳩子自身の仕事となり、人とつながる手段となり、最後には祖母への手紙につながっていく。

この流れが、心に残った。

祖母との関係はやり直せない。それでも、QPちゃんやその父親、バーバラ夫人たちとの関係は、これからも続いていく。

鳩子とQPちゃんの父親との関係が、少しずつ深まっていきそうなところにも、温かい希望を感じた。

過去を変えることはできなくても、過去の受け止め方は変えられる。そして、そこから新しい一歩を踏み出すこともできる。

この小説を読んで、そんなふうに思えた。

まとめ|受け継いだものが、自分の人生をつくっていく

『ツバキ文具店』は、代書屋という仕事の奥深さと、人とのつながりの温かさを感じられる小説だった。

特に心に残ったのは、あれほど反発していた祖母から受け継いだものが、鳩子の人生を支え、新しい人とのつながりを生み出していくことだった。

失ったものを取り戻すことはできない。それでも、今あるものを大切にしながら、新しい人生を歩いていくことはできる。

鳩子が祖母に宛てて手紙を書く姿を思い出すと、そんなふうに感じる。

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toshi

京都市在住のエンジニア。読書好きが高じてブログを始め、現在は数学やAI・ソフトウェアを中心に、おすすめの小説についても記事を書いています。

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