誰かを叱るとき、「相手のためを思って叱っている」と考えていませんか?
私も、子どもが悪さをしたときなど、「子どものためを思って叱っている」と考えていました。
しかし、『〈叱る依存〉がとまらない』によると、脳科学的には、「叱る」は、「怒る」や「罰を与える」と大差ないそうです。
どれも相手にネガティブな感情を与えるのが目的になっていて、叱ったところで、相手は何も学習しないと言うんですよね。
しかも、「叱る」には、エンタメ性があり、依存性まであるそうです。
なぜ、叱っても学びや成長につながらないのか?
「叱る」とは、言葉でネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与え、相手の行動や思考を変えて、思うようにコントロールしようとする行為のことです。
この「ネガティブな感情を与える」というのが、「叱る」の重要なポイントになります。
相手を変えようと思えば、「指導する」「説明する」「注意する」「説得する」など、ネガティブな感情を与えない方法が、他にも色々あるからです。
それにも関わらず、叱ってしまうのは、即効性があるように思えるからでしょう。
実際、じっくり説明するよりも、「片付けなさい!」「勉強しなさい!」などと叱った方が、相手もすぐに行動を変えてくれますよね。
しかし、この「すぐに変わる」が問題なのです。
なぜなら、脳としては、生存確率を最大限に高めるための「防御システム」が働いているだけで、学習回路は働かないからです。
野生の動物たちが命の危険があるような差し迫った状況に対処するために、即座に判断しているのと同じです。
実際、過度なストレス状況では、知的活動に重要だと考えられている脳の部位(前頭前野)の活動が、大きく低下することが確認されています。
つまり、どれだけ叱ったところで、相手は防御システムで反応するだけで、何も学べずに、同じことを繰り返してしまうのです。
「叱る」には効果がないとわかってもやめられない理由は?
それは、「叱る」には、エンタメ性があり、依存性があるからです。
私も大好きですが、池井戸潤さんの小説『半沢直樹シリーズ』など、勧善懲悪の物語が人気なのは、処罰感情が満たされるからです。
古代ローマでは、犯罪者が処罰されたり、猛獣と戦う姿を見るのが市民の娯楽でした。
残酷さの程度は違えど、「叱る」のにハマってしまうのも、メカニズムとしては同じです。
それだけでなく、脳は苦痛を回避したときにも、美味しいものを食べたり、褒められたときと同じように、報酬系回路が働きます。
人が何かに依存するのは、抱えている苦痛を和らげてくれるものに対してです。
「受け入れ難い現実」があり、その現実を一時的であったとしても忘れさせてくれるような快感や体験に依存します。
つまり、「叱る」に依存してしまうのは、相手を叱ることで、処罰感情が満たされて、報酬系回路が活性化し、その効果で「受け入れ難い現実」を一時的に忘れることができるので、さらに報酬系回路が働く…と二重に報酬系回路が刺激されるからです。
しかも、叱られた相手は、何も学んでいないので、再び同じ問題が起こり、また叱るハメになります。
こうして、自分自身が楽になるために、効果のない「叱る」を延々と繰り返してしまうのです。
「苦労は役に立つ」の本当の意味は?
「叱る依存」から抜け出したい/なりたくないのであれば、「人は苦しまなければ、変化や成長ができない」といった誤った考えから抜け出すことが第一歩です。
苦労が成長につながるのは、主体的、自律的に苦しみを乗り越えたときだけです。
他人から与えられる「強要された我慢」や「理不尽な苦痛」では、無気力になったり、諦めることを覚えるだけだからです。
だからこそ、私たちができることは、叱るのではなく、相手が「やりたい」「欲しい」と感じる目標を見つけるサポートをすること。
そして、目標を達成するための武器を与え、道筋を示すことです。
叱っていいのは、自分を傷つけてしまうか、他人に害を与える場合だけです。
それも、その行動をやめた瞬間に終わらせること(グダグダ叱らないこと!)。
私も、子どもたちが伸び伸びと育つように、やりたいことに向かって行動していくように、「叱る」を手放していきたいと思います。
そうすれば、叱っていた時間に、好きなこと(読書!)に挑戦できるはずです。ブログの更新回数も、きっと増えるはずです…。
コメント