因果応報を信じていますか?
エール大学とカリフォルニア大学の共同研究によると、他人を蹴落としてでも自分の利益を優先する人は、周りの人たちを快く助ける人に比べて、遥かに健康状態が良くなく、死亡率も1.5倍から2倍程度高いことがわかりました。
つまり、良い行いも悪い行いも自分に返ってくるという因果応報は、現実として存在するということです。
この事実を知った上で、これまで通り振る舞えるでしょうか。
死体を見たかどうかで優劣が決まると考える少女たちの物語
湊かなえさんの小説『少女』を読みました。
桜川高校に転校してきた紫織が、仲良くなった二人に「親友が自殺したので死体を見たことがある」と自慢げに言ったことがきっかけで、二人の女子高生が目の前で死体を見ようと行動する物語です。
敦子は、小学生の頃からトロフィーや賞状がもらえるほど剣道が上手でしたが、中学三年生の県大会の決勝で足を怪我してしまい、負けました。
このとき、ある出来事があったので剣道を辞め、それから必要以上に他人の目を気にするようになりました。
そんな自分が嫌で仕方なかった敦子は、紫織の話を聞いて、死体を見れば自分も変われるかもしれないと思い、老人ホームでボランティアをすることに決めます。
一方の由紀は、小学五年生の時におばあさんに叩かれて左腕に大怪我を負い、剣道を辞めました。
地獄のような日々を過ごしてきたのに、死体を見たというだけで「気持ちがわかる」と言い出した紫織に腹が立った由紀は、死体を見る以上の経験をしようと、小児科病棟にボランティアとして乗り込みます。
こうして、二人の女子高生が死を目撃したいという不純な動機でボランティアを始めましたが…という物語が描かれている小説です。
私はこの物語を読んで、伊坂幸太郎さんの小説『マリアビートル』を思い出しました。
大人をバカにして、痛めつけて喜んでいる中学生が、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と聞いてまわる姿を思い出したからです。
この中学生も、先ほどの女子高生と同様に死を特別なものとして扱っていますが、「なぜ人を殺してはいけのか?」という質問に答えられるかどうかで、人としての優劣が決まるわけではありません。
もちろん、死を実際に見たかどうかで決まるわけでもありませんが、死という遠い存在を特別視して、少し触れたことがあるだけで優越感に浸ったり、悔しい思いをしたりする精神的な未熟さが描かれていたので、懐かしい気持ちになりました。
死を意識しなくても生きられる青春時代ならではの視点に惹き込まれる小説です。
因果応報は存在するのか?
さて、この物語全体を通して描かれているのは、良いことも悪いことも、やったことは自分に返ってくるという因果応報についてです。
由紀は、敦子をテーマにした小説『ヨルの綱渡り』を描きましたが、この小説を入れたカバンを学校に忘れたときに国語教師の小倉に盗まれました。
しかも小倉は、盗んだ小説を新人文学賞に提出し、賞をとったのです。
ところが、この小説が出版されることはありませんでした。小倉が交通事故で亡くなったからです。
では、なぜ小倉は交通事故で亡くなったのか?が気になるとことですが、これ以上はネタバレになるので書きません。
しかし、盗作をした小倉だけでなく、痴漢の冤罪でお金を騙し取ろうとした女子高生や、実際に騙し取ったにも関わらず、罪悪感をまったく感じていない女子高生たちが、想定外のところから罰を受けていく姿に、驚きとスッキリ感が味わえました。
また、作中では描かれていませんが、死体を見たいという不純な動機でボランティアに参加した彼女たちも、もしかしたら驚くような罰を受けているかもしれない…など、読み終わった後も、あれこれ想像してしまう物語です。
とはいえ、「現実ではこんなに上手くいくわけがない!」と思う方もいるでしょう。
しかし、冒頭で紹介したように、直接的ではないにしろ、やったことは必ず自分に返ってきます。
このように、湊かなえさんの小説『少女』は、因果応報をテーマにした、伏線が気持ちよく回収されていく、驚きが味わえるミステリーなので、気になった方は、ぜひ読んでみてください。
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