いじめが後を絶ちませんよね。
小学校や中学校でいじめられて自殺をする人も大勢いますが、今では社会人になっても、いじめられて自殺をする人がいます。
それだけいじめが大きな問題になっていますが、いじめをするような心の弱い人間を相手にして死ぬのはもったいと思うんですよね。
中川翔子さんの本『死ぬんじゃねーぞ!!』を読んで、その思いがさらに強くなりました。
いじめられる人間にも原因がある?
いじめの話題になると、必ず「いじめられる人間にも原因がある」という人たちが現れます。
しかし、こういう主張をする人こそ、実際にいじめられて、死ぬほどの痛みを味わうべきだと思います。
いじめは犯罪です。適当な理由をつけて殴られたのに、「殴られないように行動しないお前が悪い!」なんてバカな理屈は通りませんよね。
しかし、「いじめられる人間にも原因がある」なんていうバカな大人が大勢いるからこそ、いじめは無くならないし、自殺者も後を絶たないのです。
いじめは、いじめによって傷つくだけでなく、周りにいる人たちがいじめを放置したり、隠蔽したり、正当化することで二度傷つけられます。
ところが、特にそうではあってはならない学校の先生に、いじめを放置したり、隠蔽したりする傾向が見られるんですよね。
実際、しょこたんを含むいじめられた経験のある多くの人たちが学校と学校の先生に対して失望しています。
なぜなら…。
日本の学校は加害者の味方
日本の学校は加害者の味方だからです。
いじめが発覚すると評判が下がるので、先生や学校側は絶対にいじめを認めないし、むしろ隠そうとします。
そのため、どれだけいじめを訴えても、欠席裁判でなかったことになるんですよね。
実際、いじめられていたある女性が学校に訴えたところ、アンケートに「いじめはあった」と書かれていたのに、それらの意見がもみ消されたそうです。
また、学校の先生は「委員会もやるような子がいじめをするわけがない」という先入観で生徒を判断しがちです。
だからこそ、日本では教室の中でいじめが起きるわけですが、海外では教室の中ではいじめは起きないそうです。
大人が大人らしい行動をとっているからです。
また、日本ではいじめられた人が転校しますが、海外ではいじめた人間が転校させられます。
このような加害者に優しい日本の学校に通うことに、どれほどの意味があるのでしょうか?
多様性を認められる人たちと付き合っていこう
とはいえ、コミュニュケーション力をつけるという意味では学校も一定の役割を果たしています。
しかし、コミュニュケーション力は学校の外でも鍛えることができます。
むしろ、多様性を認める余裕のない学校よりも、外の世界でコミュニュケーションをとったほうがプラスが多いように思うんですよね。
そのため、いじめにあったときは、学校に行く必要はありません。
多様性を認めることができない、心の弱い人たちに従って生きる必要などないからです。
そもそも、いじめをする人たちは、心の弱い情けない自分を正当化するために、他人を攻撃して、一時的な優越感を得ているだけです。
そんな心の弱い人たちを相手にするのはやめて、自分が必死になれる何かを見つけましょう。
プラスのエネルギーで溢れる人たちと付き合って行きましょう。
今いる場所以外にも素晴らしい場所はたくさんあります。
そうすれば、一時的に苦しい思いをすることになっても、自分にあった道が必ず見つかります。
だからこそ…。
「死ぬんじゃねーぞ!!」
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