完璧主義者を辞めなければ「面白い文章」は書けない

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 私たち日本人には、完璧主義者が多いといわれている。

 たとえば、外国人旅行者が読む「日本」のガイドブックには、「日本人は完璧主義者なので、英語をマスターしていない限り英語を話してはいけないと考えている。だから、いきなり道を聞こうとしても逃げられることがあるので、まずは相手の心の障壁をとくために『kon-nichiwa(こんにちは)』と言いましょう」――と書かれているそうだ。

 もちろん、完璧主義者だからといって悪いことばかりではない。日本製品の品質が世界から高く評価されているのは、完璧主義者ならではの気質によるところが大きいだろう。しかし、そうした気質を持ち込んではいけない分野もある。そのひとつが「文章」だ。




 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」――これは、村上春樹さんの小説『風の歌を聴け』の冒頭のセリフであるが、この言葉が示しているように完璧な文章など存在しない。

 それにもかかわらず完璧を求めるとどうなるのか。おそらく絶望することになるだろう。もしかすると、若かりし頃の村上春樹さんも、完璧な文章を追い求めて絶望を味わったひとりなのかもしれない。

 「完璧な文章などといったものは存在しない。――」には、もう一つの意味が込められているように思う。それは、「完璧な文章など書くものではない。読者に想像できる余地を残した文章こそが面白い文章である」という意味だ。

 実際、村上春樹さんは『風の歌を聴け』をつくりあげるときに、あえて完璧さを排除し、読者に想像できる余地を残したという。

 「最初はABCDEという順番で普通に書いたが面白くなかったのでシャッフルしてBDCAEという風に変え、さらにDとAを抜くと何か不思議な感じがしておもしろくなった」

 その結果、面白い効果があらわれた。ネットで検索してみればわかるが、様々な解釈をする人たちが現れたのだ。

 ここで、本書のストーリーを大雑把に説明しておこう。東京の大学に通っていた主人公の「僕」が、夏休みを利用して地元に帰省する。そこで「僕」は「鼠」と呼ばれる人物と出会う。「僕」は「鼠」とバーでビールを飲む仲になるが、ある日、そのバーの洗面所で倒れている女性と出会ってから関係が微妙になっていく。

 ちなみに、バーで倒れていた女性とは「小指のない女性」。やがて「僕」はその女性に恋心を抱くようになるが、その恋は成就しなかった。そして、僕は傷心を抱いたまま東京へと帰っていく――。だいたいこんな感じだ。

 しかし、実は表面にはあらわれていないストーリーが隠されているという。たとえば、「鼠」と「小指のない女性」は恋愛関係にあって、そこに「僕」が介入した、いわゆる「三角関係」を描いた物語であるというのだ。

 「小指のない女性」は、「鼠」の子どもを宿していた。しかし、「鼠」は大金持ちの息子で、「小指のない女性」とは結婚できない関係にあった。つまり、二人は微妙な関係だったのである。

 一方、「僕」の三番目の彼女は自殺をしていた。「僕」の子どもがお腹に宿っていたにも関わらず…だ。だから「僕」は、「小指のない女性」に「三番目の彼女」のようになって欲しくないと願うようになった。そうしているうちに、僕は「小指のない女性」と「三番目の彼女」を重ねてみるようになっていく。その結果、「僕」は「小指のない女性」に恋愛感情を持つようになった――こう読み解くことができるというのである。

 他にも、「すべての登場人物は『鼠』と同じように動物にたとえられている」とか、「日付や挿絵、太文字や『OUI』といったアルファベット標記にもすべて意味が隠されている」、さらには「実は『鼠』は女性だった」など、さまざまなストーリーが読者によって語られている。つまり、完璧な文章を書き上げなかったからこそ、この小説は面白いのだ。

 ◆◆◆

 さて、私たちは文章を書くときには「自分の考えや想いを確実に伝えたい」欲求に支配されてしまう。だから完璧な文章を追い求めてしまいがちだ。しかし、そもそも完璧な文章など存在しない。もし仮に存在したとしても、考える余地が残されていない文章では読者を感動させることはできないだろう。

 だからこそ、小説『風の歌を聴け』のようにあえて読者に想像できる余地を残す必要がある。読者に想像させ、イメージを作り上げさせ、考えさせる文章だ。そうした文章が書けるようになれば、きっと村上春樹さんのように多くのファンができるだろう。

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